時代区分 | 目次 | 概 要 |
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弥生時代 紀元前10世紀~紀元後3世紀中頃 |
・後漢書に記述されている「漢倭奴国王」印である。江戸時代に志賀島で発見されたが、発見場所や発見の経緯が不可解なために未だに真贋論争が続いている。 今まで何となく贋作だと思っていた。贋作の金印を国宝にしてしまっているが、本当にいいのだろうか?しかし、金印の組成は金約95%、銀約5%であり、同様の組成の金箔がこの時代の遺跡より発掘されている。江戸時代にこの組成をどのようにして知ったのか?仮に知り得たとしても江戸時代にその組成の金を鋳造できるはずがない。金は幕府が管理して、市場に出回っている小判は金が80%以下である。形状や文字はいざ知らず、江戸時代に中国の1世紀頃と同じような組成の鋳造が出来るはずがないと思い始めた。 贋作の論拠は ❶発見場所が古代遺跡のない志賀島で不可解 ❷発見者の農民・甚兵衛が行方不明になり不可解。失火の罪で追放か? ❸儒学者・亀井南冥の素早い金印の鑑定が不可解、後に失脚。 ❹「漢倭奴国王」のはずで「倭」が「委」になっている。人ベンが無いので贋作だ。 まず金印の組成が中国の1世紀頃のもの(銀;約5%)と同一であり、江戸時代の人が、その成分比を知り得たはずがない。それに純金を幕府が一括管理していたので、純金を入手する手段がなかったので、その組成の金の鋳造は不可能である。(市場にある小判は銀成分が20~40%である。) 人ベンを省略した同時期の金印が中国で発見されている。当時、その習慣があったのだろう。論拠にならない。むしろ江戸時代の贋作なら「倭」にしたであろう。 発見場所は謎めいているが、むしろ、贋作であれば、贋作の計画者は奴國とか、もっともらしい場所(福岡市付近)で発見したように見せかけたのではなかろうか? 贋作説を唱える者は可能な偽造手順を証明すべきではなかろうか? |
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古墳時代 3世紀中頃~7世紀頃 |
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魏志倭人伝によると2~3世紀の日本列島の倭国に女王卑弥呼の住む、女王国の都の邪馬台国を魏の使者が訪問したとあり、その場所について今なお論争が続いている。記載に従えば南方の海に到達してしまい、記述に誤りがあるとされ、100を超える諸説が出たが、南に向かったというのは東の間違いで、纏向遺跡の大型建物が女王の宮室だったとする畿内説、陸行1月が1日の間違いだったとかの理由で、吉野ケ里遺跡の大型建物が女王の宮室だったとする九州説に絞られる。しかし、いずれの説もその他の記述に矛盾が生じるので、説得力に欠け、そこがお互いの攻撃の的になっている。魏志倭人伝の記述のどこを読み替えるかによって、いろいろと諸説が出てきてしまうことになる。 この議論は現代の日本列島の地理認識を前提にしている。 しかし、紀元前後の日本列島の地理認識が現代の我々と同じだったのだろうか?当時の地図は発見されていない。あったかもしれないが、極秘だったのかもしれない。14~15世紀の中国や半島の地図では、日本列島は九州から南に広がったように描かれている。さらに大陸との位置関係が異なっている。少なくても古代からその頃までは同様の認識だったのではなかろうか?紀元前後の人々が我々と同様の地理認識ではなかったと思うのが自然だろう。 日本列島が南北に広がっていれば、九州説はあり得なくなる。地図上を南下すれば畿内に到達する可能性は大きくなる。行程も想定範囲内になる。その上、女王国やその都・邪馬台国に関する他の記述が合致してくる。 倭国に入ってから、末盧国→伊都国までの方角、また伊都国→奴国までの方角が70度ほど明らかに誤認していると認めているが、それ以外の方角は正しいとして自説を唱える専門家も多いようだが、当時は太陽の軌道で方角を判断しているので、辻褄が合わない。全て誤認しているとして読み解くべきだろう。 倭の国々には女王国30か国に限らず、中国風の名前を付けている。しかし、「女王国より東へ海を渡る、千余里に倭種の国がある」とし、遠くの国ではないのに国名が無い。それに続くはるかに遠い国々には侏儒国(こびとのくに)、裸国、黒歯国の名前があり、その3国は架空とされている。この倭種の国だけを実在と解釈し、九州内に邪馬台国があれば、その東に位置する四国がこれに該当するとして九州説(畿内説だと比定される国(島)が無い)を主張している専門家が多いようだが、方角の東は北に修正すべきだろうし、実在そのものが極めて疑わしい。魏志倭人伝の他の国々は名前がついているのに、この倭種の国だけ名前が書かれていないのは不自然だし、この項目は倭国の説明文とは別の箇所に書かれていることからして、この項目全体がフィクションと判断すべきである。果たして専門家はどのように説明するのだろうか? 弥生時代の後、3世紀後半から約400年間、古墳が盛んに築造された。古墳時代である。古墳を造った各地の王、豪族らが、ヤマト地方の王を中心に政治的に結びついた連合体を形成していた。これをヤマト王権と呼ぶ。このような政治体制が約300年続いて、やがて飛鳥時代を迎える。(2022年7月20日) |
飛鳥時代 592~710年 |
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・壁画が発見された古墳はキトラ古墳と高松塚古墳のみである。いずれも7世紀末から8世紀初に築造されたことが分っている。被葬者の候補12名から消去法で絞り込むと高松塚古墳の被葬者は天武天皇の皇子・刑部皇子(おさかべ)、キトラ古墳の被葬者は天武天皇の皇子・高市皇子(たけち)が浮かび上がってくる。果たして? ・在位592~628年の第33代女性天皇である。政治感覚に優れ、頭脳明晰で巧みに王権の存続を図ったとされる。大きな事績を残し、この時代を無難に乗り超えたとされる。 推古天皇は有能な叔父・蘇我馬子を重用したのか、それとも蘇我馬子に操られたのか?聖徳太子を飛鳥宮から遠く離れた(直線距離で十数キロメートル)斑鳩に居を構えさせた。政治に関与できる環境ではない。推古天皇が天皇の地位に執着するあまり、次期天皇候補の聖徳太子を政治から遠ざけたのだろうか?それとも蘇我馬子の差し金に従っただけなのだろうか? 倒した蘇我氏の事績を否定する古事記・日本書紀の作者たち及び戦前の歴史家により、この時代の功績のほとんどを非蘇我系の皇族・聖徳太子のものとしてきたと近年は解釈され、今までの「聖徳太子像」が大きく揺らいでいる。 天皇に執着した推古天皇のしたたかな政治家像が浮かび上がってくる。 ・在位642~645年の第35代女性天皇である。 重祚(ちょうそ、一度退位した天子が再び位につく)して第37代斉明天皇(さいめい)となる、在位期間は655~661年。 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)による「乙巳(いっし)の変」が起こり、蘇我入鹿(そがのいるか、最高権力者)が殺害された。その後も山背大兄皇子(やましろおおえのおうじ、聖徳太子の皇子)が襲撃され自害に追い込まれた事件、有馬皇子(ありまのみこ、第36代孝徳天皇の皇子)謀殺事件等、謀略と裏切りで血塗られた時代だった。果たして皇極天皇はこれらの血なまぐさい事件にどこまで関与したのだろうか?多くの謎を残した。 ・在位690~697年の第41代天皇 天智天皇の皇女で、天武天皇の皇后である。「何が何でも我が子・草壁皇子を天皇にしたい。」との思いで全力を尽くし、草壁皇子が若くして崩御した後は、孫・軽皇子(のちの第41代文武天皇)を皇位につけるべく自ら即位し、血なまぐさい時代を無難に乗り超えた。政治感覚に優れた女帝であり、多くの謎を残した。 |
奈良時代 710~794年 |
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・不比等(~720年) 絶大な権力を持っていた藤原鎌足の次男である。 近江朝についた同族は「壬申の乱」で一掃されたが、持統天皇のお気に入りの立花三千代と恋に落ち、お互いのパートナーを捨てて、結婚した。野望家同士の結びつきで、権力基盤を築いていく。 そして藤原家の「摂関政治」の礎を築いた。 ・在位749~758年の第46代孝謙天皇、そして 重祚して在位764~770年の第48代称徳天皇である。 史上最高と言われるほどの黒いうわさがつきまとう。最大の原因は誰もが知る宇佐神宮神託事件だろう。いわゆる道鏡事件だ。道鏡についてはのちの世に面白おかしく語られているが、はたして史実はどうだろうか? 生涯、恋愛も結婚もかなわない孝謙天皇の抑えることのできない愛による申し出を、ただひたすらに受け止めただけだったとも受け取れる?最大にして唯一の孝謙天皇の後ろ盾を失った後も処罰されなかった。 ・藤原薬子(~810年)は中納言藤原縄主の妻で三男二女の母だが、娘を差し置いて娘婿・安殿親王(のちの第51代平城天皇(へいぜい))と深い関係になり、おんなを武器にして天皇の身も心も絡め捕り、あやつり、手練手管を駆使して政治や宮廷の人事に関わって、男社会の宮廷をかき回した。「平城太上天皇の変」とする教科書もあるようだが、天皇は薬子に絡め取られただけで、この「変」の主役は紛れもなく薬子である。とてつもない妖女ではあるが、見方を変えれば見事でもある。不思議なことに日本三大悪女(北条政子、日野富子、淀殿)にはカウントされていないが、彼女らを超越しているということだろうか? |
平安時代 794~1185年 |
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・市原市には国府(8世紀半ば~12世紀後半?)があったが、その場所が特定されていない。興味があるので、調べて 「 上総国府いずこ?」に纏めてみた。 菅原孝標の娘が書いた「更級日記」も国府所在地決めての参考にはならないと分った。孝標は菅原道真の子孫で上総国府の国司だった。
発掘は工事他で遺跡が発見されない限り行えない。思うように発掘出来ないので、まだ裏づける決定的な証拠は見つかっていない。 〇9世紀後半まで 本格的な国府が村上地区に存在していた。養老川に隣接し、水路での運搬・移動ができるし、古代東海道にも近いので、交通の利便性がある。全国的にも大きな川によって出来た平地に国府が置かれた例が多い。この地区周辺の広さはさほどでなさそうだ。 〇9世紀後半以降 水害に足して安全な高台の郡本・市原地区に移転した。村上地区よりさらに規模が大きくなっていた。養老川に近くないが、この時代には牛車が発達してきた。 能満地区は村上地区以前に国衙的な機能があったか,または府中の名が残っているので、中世期以降に国衙的な施設があったかのも知れない。中世以降の文献が残されている。 追。更科日記は上総を経ってからおよそ40年後に書き始めた回顧録と言われているので、記憶が確かかどうかの疑問があるにせよ、国司館での生活、父親の仕事場について少しでも書いてくれていれば国府所在地の決めてとなったかも知れないと残念に思う。京への帰路の門出(仮の住まい)から書き始めている。作者は源氏物語オタクで有名で、早く京に帰り源氏物語を読むことが夢であり、それ以外は眼中になかったのかも知れない? 皆さまも候補地を訪れてみてはいかがでしよう。そして当時の景色や生活を思い描かれては? 在原業平は昔から美男の代名詞とされてきた。業平は美男だったが、伊勢物語の元祖イケメンの主人公・昔男とみなされてきたので、さらにイケメンとして世に知れ渡り、美男の代名詞となった。後世、脚本家により脚色と改編が繰り返され、そのため業平⦅昔男)の風説が徐々に実像と乖離して、流布されてきたからではなかろうか。果たして業平の実像と虚像は? 『蜻蛉日記』は、平安時代の女流日記であり、954年~974年間の結婚生活が書かれている。平安時代の女流文学の代表的作品の一つとされている。 作者は藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)で、晩年の974年頃に回想して書いたものとされる。愛し過ぎて、嫉妬し過ぎて「満たされない愛の渇き」に悶々とするところは、必ずしもプライドが高過ぎるとか自分勝手過ぎるとは言えないし、現代人にも相通ずるようだ。2023年4月30日 市原市では、2020年を「上総国府のまち いちはら 『更級日記』 千年紀」と題し、更級日記の文学的、歴史的価値に着目し、郷土への誇りと愛着の醸成を図るため、、さまざまなイベントなどを実施している。その一環として今年も加賀美幸子氏の更級日記に関する講演会が開催されたので、聴講したが、予備知識に乏しく、理解できなかったので、調べてまとめてみた。 更級日記の作者は菅原孝標女。13 歳(数え年)のときの 1020 年に父親・孝標が国司の任務を終えて、赴任先の上総国(千葉県市原市)から京へ帰途するところから52 歳の 1059 年ごろまでの約 40年間が綴られていて、52歳を過ぎてからの回想録とされている。(2022年12月25日) |
鎌倉時代 1185~1353年 |
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頼朝は安房国から下総国まで舟で北上したか 頼朝は平家追悼の令旨を受け挙兵をしたが、吾妻鏡には「1180年8月23日に石橋山で平家の大軍に敗れ、8月28日に安房に逃れる 。態勢を立て直して ① 9月13日に安房国を出発し上総国に赴いた。 ② 9月17日に下総国(市川市)に向かった。 ③ 10月1日は鷺宮、翌日に武蔵国に赴き墨田宿に到着。 ④ 10月6日には相模国に到着。 ⑤ 10月7日に鶴ケ岡八幡宮を遥拝。」と書かれていて、安房国から下総国まで4日間で到着しているが、具体的な上総国の立ち寄り場所に一切触れていない。理由は分からないが 故意のようにもとれる。陸路と海上ルートが候補となる。吾妻鏡の「源氏三代将軍記」は後世の1370年前半に書かれたとの説があるが、いろいろな人の日記等を参照して作成したと思われ、日程は信頼できるだろう。 複数の陸路説がある。鴨川→冨浦→姉ヶ崎→千葉→市川のルートは候補の一つである。現在の道路を車で行く場合の距離はおおよそ120キロメーターとなる。房総丘陵を通過する当時の古道は現在と異なり、相当曲がりくねっているので、距離は少なくても3割以上多いと仮定する。160キロメーターはあったと思われる。4日間だと単純に1日40キロメーターとなる。旧日本軍の行軍速度が24キロメーター/日で戦国時代も同様だったとか、今川義元が通常30キロメーター/日で行軍したとかの情報がある。武具を付けて敵の攻撃を前提に4日間で到達するのは無理である。その上房総最大勢力の上総介広常は「頼朝を迎えにくるように」との要請に対して態度をまだ明らかにしていなかったので、上総国を通過するのはリスクがあった。 すでに味方になっていた千葉一族や三浦一族は東京湾の海上を支配していたので舟移動は安全であり、また速度が速いので海上ルートを選択したのだろう。 しかし、房総半島には100を超える頼朝伝説があり、名前にあやかっただけなのか、疑わしいものも多いようだが、真実だろうと思われる伝説もある。頼朝の影武者数名がいて、その別動隊が頼朝伝説の場所に立ち寄ったのではなかろうか?その目的は ❶頼朝の身の安全を図り、頼朝を名乗る先遣隊を出して上総介広常の出方を探る 推測であるが、吾妻鏡に頼朝が辿ったルートに触れたくなかったのだろうと納得した。 概要 ‘大河ドラマを見ていて、北条政子が日本三大悪女の一人と知り、それまで「嫉妬深くて個性の強い人柄であるが、頼朝の偉業を助け、幕府の礎を築くことに貢献し、頼朝亡き後も鎌倉幕府を率いたしっかり者の女性」と漠然と思っていたので、驚いた。三人をいつだれがどのような悪女の定義に決めたのだろうか? 史料は少ないが、調べた結果、北条政子には、我が子・頼家や実朝の死を許容、あるいは命じたかもしれないという暗い面も疑われるが、それがあったにせよ全て夫・頼朝が創設した武士の政権・鎌倉幕府を守るためであり、実家の北条家を優先したのでもなければ、権力欲にかられて、尼将軍として権力の座に就いたのでもなさそうである。おそらく、日本三大悪女の一人でもなく、日本歴代悪女十傑にも入らないだろう。類稀な嫉妬心の持ち主であることは間違いなかろう。 (2022年8月25日) |
建武新政 1353~1336年 |
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室町時代 1336~1573年 |
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・戦国時代は女性活躍時代で、その代表が「尼御台」と呼ばれた駿河の今川寿桂尼、井伊谷(いいのや)の「おんな地頭」・井伊次郎法師だが、主だった女性を一覧表にして、整理してみた。病弱の夫を補佐し、政務を行う、幼少の跡継ぎに代わって実質的に領主として政務を執る、領主に就く、戦場に出て男顔負けの活躍をする、戦場の裏方として、すさまじくもあり、逞しい活躍をする女性たち。この時代はある意味で男女平等で、女性活躍の社会だったと思われる。 室町幕府8代将軍・足利義政の正室の日野富子は日本三大悪女の一人とされている。わが子足利義尚(よしひさ)を将軍にしたいがために陰謀を企てたことで11年間も続く「応仁の乱」が勃発したとされ、稀代の悪女とみなされるようになった。が、それは本当だろうか?酒色におぼれ、趣味に走り、政治に意欲を見せない夫・義政や息子・義尚に成り代わって、財務の才能を発揮して、政治手腕を駆使して、崩壊寸前だった幕府を立て直した女性との見方もあるようだ。(2022年9月10日) ・寿桂尼(~1568年)は1508年頃に駿河の今川家内代当主・氏親に嫁ぎ、中風になった氏親の政務を補佐し、氏親亡き後若くして家督を継承した嫡男・氏輝の政務を代行した。氏輝が急死すると出家させていた五男・義元を還俗させて家督を継がせる。義元が桶狭間で討ち取られると、義元の嫡男・氏真に家督を継がせ、政務を補佐する。四代にわたって、政務にかかわり、活躍した寿桂尼は戦国時代の女大名と云っても過言ではない。 ・NHKの大河ドラマで「おんな城主直虎」があった。その直前に井伊美術館の井伊達也氏が「井伊直虎は「次郎法師」とは別人の今川家家臣・「関口氏経」の息子・「井伊次郎」という資料が見つかった。「おんな城主直虎」ではなかったと発表して話題になった。この資料をベースに、前後の経緯を見直すととても分かり易いし、実際にそうだったのだろうと合点がいく。この資料が見つからない状況で解釈してきたから、「同一人物とし、女が花押を使ったのは非常に珍しいとか、実は次郎法師は男だったので花押を使った」とか強引な解釈をした人もいたようだ。 おんな地頭は小山の「寒河尼」のように鎌倉時代以来、正式に認められていたので実質的に領首の立場にいた「次郎法師」は「おんな地頭・次郎法師」の呼び名がふさわしいだろう。新資料は江戸時代のものなので、真実かどうか疑念が残るとして過去の解釈にこだわる歴史家もいるようだが、新たな資料がもっと以前に見つかっていたらもっと違った展開になっていただろう。 ・鎌倉五山筆頭の太平寺住持・青岳尼(~1576年)は里見家第6代城主・義弘の誘いを受け、房総の滝田城に逃避行し、義弘の正室「お弓の方」となる。後の青岳尼・結姫は小弓公方(おゆみのくぼう)足利義明の娘で6歳の時に義明が戦死し、兄と妹と3人が里見家に預けられる。里見家第6代当主となる里見義弘と出会い、ほのかな初恋が芽生えた。その後結姫は太平寺に預けられ、青岳尼と名を改め住持となり、関東一円の尼僧を束ねる立場だったが、それを投げ捨てて義弘の誘いに応じて、安房に逃避行する。が、約4年後に流行り病にかかり、命をなくす。二人の幸せな生活はあまりにも短く終わってしまう。 ・この物語の舞台は室町時代後期である。 南総里見八犬伝は曲亭馬琴( 滝沢馬琴)が江戸時代後期の1814年 に刊行して28年の歳月をかけて完結した日本史上最大の長編小説だ。日本の長編伝奇小説の古典の1つだ。ヒロイン伏姫のモデルが房総の久留里城主・里見家6代当主義堯の娘・種姫(ふさひめ)であり、夫・正木信茂 が戦死した後、夫を弔いながら、洞窟に愛犬と一緒に暮らした生涯を馬琴が知り、その生き方に興味を抱いて「南総里見八犬伝」を着想したと言われている。小説では滝田城主・里見家初代・義実の娘としていて、舞台は滝田城となっている。 明智十兵衛光秀や、嫡子・明智光秀重五郎光慶は本能寺の変後の秀吉軍との戦いに絡んで死没したとされている。いまだに生存説もあるが、その根拠は不明であり、中には単なる憶測に過ぎないものもある。千葉県市原市不入斗(いりやまず)に、「ふさ」とその子・「土岐重五郎」の墓碑銘の墓、さらに土岐重五郎の子・土岐十兵衛の墓があり、漠然と「奥方の墓」として語り伝わっている。側室が光秀を偲び、我が子に光慶の十五郎の名にあやかり、また孫には十兵衛光秀の名をあやかったものと推測される。明智は美濃の土岐氏の支流なので、土岐姓を名乗ったのであろう。土岐氏は齋藤道三により上総国夷隅郡に追われ、子孫が夷隅の万喜城の城主であった。 光秀が側室「ふさの方」が子を宿していることを知り、上総国市原郡不入斗に家臣をつけて逃げ延びさせたのであろう。子孫を名乗る家はいまだに墓守をしていている。光秀の子孫を名乗る方の談話、家臣の子孫を名乗る方の談話と墓の墓碑銘に作為も感じないし、相互に矛盾も見当たらないので、信憑性は高いと思われる。しかし確たる史料は見つかっていない。重五郎は十五郎光秀であるとの説もある。 |
安土桃山時代 1573~1603年 |
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・誾千代(1569~1602年)は、戦国時代の女性武将で7歳にて立花城の城主となり、のちに高橋紹運の長男・宗茂を婿に迎え、宗茂は立花姓を名乗る。宗茂は関ケ原の戦い西軍につき、改易されるが、大名として復帰する。旧領(柳川)を回復したただ一人の武将である。 秀吉が「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」とその器量を高く褒め称えた。 ・太閤秀吉を始め高貴な方々がくぐる大徳寺山門の楼上に利休像が安置されたことが無礼千万とされ、また茶器で不当利益を上げたとして、利休が秀吉に咎められ、山門より降ろされた利休像が一条戻り橋で磔にされた上で、屋敷をおよそ3,000もの上杉勢に取り囲まれ、切腹させられた話は有名である。これは約60年後の江戸時代に利休の子孫・表千家4代目千宗佐の書いた「千利休由緒書」や、それ以降の江戸時代の資料による。「千利休由緒書」は4代目千宗佐が紀州徳川藩の求めに応じて、利休の孫の千宗旦や利休を知る人々に聞き合わせて書いて提出したものである。 京中の噂になったという木像磔については当時の日記や手紙に複数の記録が残っているが、屋敷がおよそ3,000もの軍勢に取り囲まれたとか切腹させられたとの記録は残っていない。木像磔よりはるかにセンセーショナルな出来事だったはずである。多くの人が見たことや知ったことを日記等に書き残したはずであり、素直に解釈すればこれほどのことが書かれていないという ことはそのような事実が無かったということなのかも知れない?また、およそ60年後まで世間で語られなかったような話を何故4代目千宗佐は聞き合わせることが出来たのか?謎である。歴史家に古文書そしてその行間をもっと読み解いてもらいたいと思う。 |
歴史 弥生~安土桃山時代
