「陸奥宗光は和歌山紀州藩士で国学者の伊達宗広の六男として生まれる。幼名は牛麿(うしまろ)。幼少期に父親・宗広が、勘定奉行に取り立ててくれていた藩主が死去したことにより失脚したため、一家は城下を追われ、生活は困窮したが、苦難を乗り越え海援隊の坂本龍馬に出会う。龍馬に認められ、海援隊の商事部門を任されてから頭角を顕す。その後幾多の変遷を経て、やがて政治家に転身して中米公使等を経て、やがて外務大臣に就任する。政治家として縦横無尽の活躍をし、外務大臣として不平等条約の撤廃に成功する等、日本の近代化に辣腕を振るう。その妻亮子は元芸妓だが、英語・文学・歴史・ファッション・テーブルマナー、それに社交ダンスまで猛勉強して夫を支えた。並み外れた美貌と優雅なもてなしで「鹿鳴館の華」とか「ワシントン社交界の華」と呼ばれた。(2024年9月10日)」
大山捨松は、激動の明治時代にあって初の女子留学生としてアメリカで11年間を過ごし、日本が急激な西洋化政策をとる中、日本人女性の進むべき道を切り開き続けた女性である。捨松は政府の要人の妻であることから直接に係ることができなかったが、女子教育に情熱を持ち続け、生涯にわたって裏方として女子教育に貢献し、「鹿鳴館の名花」と謳われ、日本の西洋化のためにありったけの情熱を注いだ人物である。津田梅子の生涯の盟友である。(2023年3月25日)
「2024年に新千円札の顔となった北里柴三郎は、「近代日本医学の父」として知られるが、「微生物の狩人」とも称される。明治時代に日本の医学を発展させ、細菌学で多くの研究実績を残し、多くの研究所や大学を作った人物である。柴三郎は、生涯をかけて伝染病をいかに予防し、撲滅するかということに情熱を燃やして奮闘し続けた。革新的な功績を挙げながら、ノーベル賞を逸した謎、業績に反して国内の知名度が野口英世に及ばない謎、その人物像を探る。」
歴史・遺跡関係のその他
空海、孝謙天皇と弓削道鏡、井伊直虎、伊達政宗、利休、秀吉、春日局の偉人たちの史実(真実)と小説(フィクション)の間の実像を探る。
市原の古墳群と遺跡群の紹介・上総国の国分寺台遺跡を歩く。
関係者による長年のご努力の悔過として2020年1月、千葉県市原市田淵にある逆転層が地磁気逆転の記録がよく残っているため、時代を区分する地層として世界的に認められた。ラテン語で「千葉時代」を意味する「チバ二アン」と呼ばれることになった。日本の地名に因んだ名前が「地質時代」(地球に地殻が形成されてからのちの時代)につけられたことは初めての快挙だ。それに至るまでの貴重な講演を聴講することができた。 ほとんどの時代はすでに名前が決まっていたが、最新の地磁気逆転が起こった77万4千年前から最終間氷期(温暖期)の12万9千年前までの時代の名前がついていなかった。 「チバ二アン」の時代には原人がいたと言われ、この時代の最後頃には人類の祖先の「ホモサピエンス」が誕生したと言われている。
「市原市立姉ヶ崎公民館主催の自然観察会に参加し、南房総の「海底地すべりと地震段丘」を観察した。200万年前の巨大地震が引き起こした1,500~2,000mの深海での海底地すべり地層が隆起した露頭、1,000m以上の深海で生息するシロウリガイの300~350年前の化石の露頭、野島崎付近では6000年前からの巨大地震の繰り返しで隆起した段丘を観察した。6000年前の地震では23~26m隆起し、約300年前の元禄地震では5~6m隆起したそうだ。自然の営みとはいえ、驚くべき地殻変動のすごさを知ったので、記録に残すことにした。」〚江戸時代以来、何人もの人が讃岐国府を探し求めてきたが、長い時間、特定できなかったが、1970年からの発掘調査により、坂出の府中町に特定さ れ、2020年には国の史跡に指定された。出来るだけ早い時期に国府跡を探索したいものである。(2023年1月25日)〗9世紀~10世紀
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